身体のような言葉

石井路子

この文章は、2020年2月発行のブックレット「OTEMON HYOCOMI」に掲載したものです。石井先生は本コースの立ち上げに尽力され、2021年度から兵庫県豊岡市にある芸術文化観光専門職大学にて教鞭をとられています。

「これって演劇の授業なの?体育みたい。」と新入生によく言われる。多くの子供たちにとって演劇の授業というと、台本を片手に読み合わせをしたり立ち稽古をするイメージらしい。そう言われるのも無理はないのかもしれない。なぜならずっとずっと、歩いたり走ったり転がったりポーズしたり、筋トレしたりしてるから。

私の授業で言葉を扱うのは本当に稀だ。演劇といったら言葉、台詞、ダイアローグででき上がっているものだけれど、授業で戯曲などのテキストを使うことはほとんどない。なぜそういうプログラムになったか、その理由はいくつかある。

 

他者の書いた言葉を自分の言葉として、腑に落として話すのはとても難しい。言語能力に長けている器用な人にはそうでないのかもしれない。けれど、まだ人生経験が少ない児童生徒にとっては、サブテキストを想像して、「もし自分だったら」と考えるのは至難の業だ。高校演劇を指導していた時、生徒に当て書きする形で脚本を書いていたが、生徒が自分の言葉として台詞を話せるようになるまで、決して短くない時間が必要だった。そのギクシャクした言葉が、書いた私の力不足を露呈しているようで本当に嫌だった。しかも、である。芝居の中でも生活の中でも、私にとってグサッと刺さる言葉は、いつも必ずシンプルだった。その人の身体に根差した、いや、身体のような言葉。そのリアリティある言葉で舞台上を満たしたい。そう思うようになった。

 

 

 

そもそも、どうしてテキストを読むと誇張した大げさな言い方になってしまうのだろう。きっと「この言葉を表現しなきゃ」と思うからなんだろうな。本当はどうしてその言葉が口から出るかの方が大切なんだけど、書いてある言葉をとりあえずそれらしく言うことが先に立って、自分の身体と言葉との間に段差ができてしまうんだろうな。

だったらサブテキストの方から演技に入っていったらいい、と思った。言葉が生まれる背景を知ること、言葉以前の身体を読み解くこと、自分を知ること、他者を想像すること。それらを学んでから言葉の方に入っていったら、テキストを自分の言葉として言い易くなるかもしれない。試行錯誤を繰り返して、身体の(つまりは心の)アンテナを鋭敏にする現在のプログラムができ上がった。

 

もう一つの理由は、表現をする心理的負荷を下げるためだ。課外活動と違って、授業は様々な背景を持つ生徒が受ける。表現、つまり自分を他者に晒すことは、思春期の生徒でなくてもとても勇気がいる。身体を動かす充実感を得るところから徐々に表現へと導いていくことが、心理的負荷を軽減することになる。

 

そして最大の理由は、自分で考えて動いている時が人は一番美しいと思うからだ。誰かが書いた言葉を無思慮に話すよりも、腑に落ちた自分の言葉で話す。頭と身体が一致して、考えたように動く。そんな身体から生まれる表現が観たい。

 

 

追手門で表現教育を立ち上げて6年。奇跡のような瞬間がたくさん生まれる現場になった。生徒が代替不能な自分を表現する場。彼らにしかできない、彼らだからできる表現。その表現を学内の生徒たちが観て、また自分のかけがえのなさを知る。すべての人が代替不能な自分と等価であることを学ぶ。この教育を受けた生徒たちがやがて社会に出ていった時、そのコミュニティに所属するたくさんの誰かを大切にし、人と人とをつなげる存在になってほしい。そうして社会を緩やかに変えていってほしい。

 

大袈裟かもしれないけど、教育は未来を、社会を創るものだ。自分も他者も大切にする、そんな人を育てる表現教育が、今後多くの学校に取り入れられていくことを願ってやまない。


石井路子(いしい・みちこ)ドラマティーチャー。2004年から福島県立いわき総合高校において演劇教育を実践。高校生とプロの演劇人の協働を通じ、飴屋法水作『ブルーシート』(第58回岸田國士戯曲賞受賞)など多数の作品を世に送り出した。2014年度より大阪府追手門学院高等学校表現コミュニケーションコースを立ち上げる。現、芸術文化観光専門職大学講師。著書に『高校生が生きやすくなるための演劇教育』(立東舎)。